トルコの歴史は約10.000年前にさかのぼります。アナトリアの大地は何千年にもわたりスメル、バビロン、アッシリアからの文明がハッティやヒッタイトのような人々を通して交わった文明の交差点です。その結果、アナトリア文明は西からの考えや伝説などとも交わり、独自の文明を築くこととなりました。青銅器時代には始めての町が形成され、その時期にはハッティ人がアナトリアに定住しはじめました。その当時のもので最も知られているのはアナトリア南東部にあるアラジャホユックであり、現在のトカット県のそば、黒海地方に通じる赤い川(クズルウルマック)とホロズの丘に位置しています。
トロイはおよそ紀元前3000年ごろに栄えた町で、ブロンズの製造に一役かっていました。

アナトリアの大地に東方からヒッタイト陣が入ってきたのはおよそ謹厳全2000年ごろのこと。多くのバビロン文明を滅ぼし、アジアの鉄を独占してきました。戦車も利用して、ヒッタイトは強力な国家として発達を続け、エジプトや他のメソポタミアの国々と勢力を交えるほどでした。1600年ごろオリエントのバビロン王国を制圧し、地中海からペルシア湾にかけてまで国を拡大させています。

ミタンニ王国は一時的にヒッタイトの敵でした。もともとは南カスピア海から来たカナン地方に属する民族で、長年にわたりヒッタイト帝国の傘下にはいっていました。そのためヒッタイトの宗教や2輪の戦車などを近東に伝える役割をしました。
紀元前1000頃、コーカサス地方からウルミヤ湖にかけてウラルトゥ王国は強大な国家を形成し、ワンを首都としていました。ウラルトゥ王国は灌漑などで優れた民族で運河や人工湖を作りました。また同時に馬の飼育や騎兵を取り入れたことでも知られています。

フィリギア人たちは(紀元前750年~紀元前300年)は中央ならびに西部アナトリア地方に定住し、アフヨン-アンカラ-エスキシェヒルの間に位置し、サカルヤ川沿いのゴルディオンに首都を構えました。有名なミダス王の時代に最盛期を迎えました。伝説によると彼の触るものはすべて金に変えたとのこと。紀元前550年ごろにペルシア帝国の傘下に入り、アレクサンダー大王の到来した紀元前333年に滅ぼされました。

現在のイズミールに近いサルデスの東部ではリディア人という別の民族が紀元前800年から650年にかけて貨幣を発見しました。紀元前6世紀にはリディアの王様・クロエススが赤い川沿いにペルシア帝国に向かってアナトリア地方を分割しました。ペルシア人たちはリディア帝国内にも進入し、アレクサンダー大王が紀元前333年にアナトリアに進出するまで勢力を誇りました。
アレクサンダー大王の死後、アナトリアはセレウコス朝の中心地となり、ペルガモン(現在のベルガマ)は近隣諸国に勢力を伸ばしていきました。紀元前241年にはフィリギア帝国の傘下に入ってから王国はさらに繁栄を続け、アナトリアの知的中心地となりました。

ローマ帝国はペルガモン王国のアッタロス3世の死後、アナトリアに浸透してきました。この王は自分の直接の遺産が無かったことからローマに自分の国をささげてしまったのです。それにより紀元後1世紀から2世紀にかけて平和と繁栄の時代に入りました。このローマの平和(パックスロマーノ)の時代に都市が形成され、エフェソスは商業と文化のアナトリアにおける中心地としてアジア属州の地位を手にいれました。

ローマ時代はこの地域にとって重要な役割を果たしました。330年にローマ帝国のコンスタンティン大帝がローマからこの地にローマ帝国の首都を遷都しました。これにより、ギリシア時代から海岸沿いの町として数千年にわたり機能したこの小さな町は、コンチタンティノープルと呼ばれるようになりました。その後この帝国は東方文明やハディス、ヒッタイトやフィリギアの血を受け継ぐアナトリアをふくめた東方文明の中心地となりました。ローマ帝国はビザンチン帝国となり、380年にキリスト教を国教と定められました。392年には異教信仰は禁止されました。476年にローマ帝国が滅亡すると、コンスタンティノープルは帝国の唯一の首都として機能するようになりました。ローマ帝国は文明や国家、キリスト教信仰の中心地でしたが、分裂により主に宗教的な中心地としての機能を果たすようになりました。
初期のローマ帝国はジュスティニアヌスの支配下にて黄金時代を迎えます。彼の時代に合計4冊におよぶローマ法典は編集されました。ジュスティニアヌス自身、偉大な編集家でした。彼の統治時代にアヤソフィア聖堂は建築されました。ローマ帝国の歴史は、繁栄と滅亡、宗教的不調和、ペルシア・アラブ・セルチュクトルコやオットマン帝国との戦争の時代に入ります。
13世紀までにローマは最後の息を閉じるようになります。1204年に十字軍がコンスタンティノープルを占拠することで痛手をうけたローマ帝国は、この地より離れ、ラテン帝国をつくりました。ブルガリアはローマ帝国から分裂し、ヴェネツィア帝国はエーゲ海での海上支配権を手にいれました。1261年にビザンチン帝国は一度首都を奪回しましたが、新たな脅威がせまってきました。

11世紀になると、トゥールルを中心に現在のイラン、イラクならびにシリアを中心に大セルチュクトルコ帝国を設立しました。1071年にはヴァンのそばでビザンティン帝国を打ち破ると、一気にアナトリアになだれ込んできました。これによりアナトリアはトルコ人に門戸を開放したことになります。この後アナトリアは民族的、宗教的、政治的、または言語や文化的な面で大きな変革を遂げることとなります。セルチュク帝国は14世紀のはじめまで勢力をアナトリアに伸ばし続け、13世紀には首都をコンヤに構えました。科学、文化が繁栄し、現在も残るシルクロードによってアナトリアは東方と西方の架け橋として機能しつづけました。農業、産業、手工業が拡大し、モスクやメドレセ(神学校)ならびにケルバンサライ(隊商宿)も多くつくられました。

セルチュクトルコ帝国は内部紛争ならびにモンゴルとの紛争により崩壊しました。アナトリアは主を失い多くの国家が乱れることとなりましたが、最終的にオットマン帝国がこの地を収めました。アナトリアでは言語、宗教、人種が統一されるようになりました。
1296年にオスマンはブルサ近郊のソウトにてオスマントルコ帝国を創立しました。オルハン王による統治時代に、ブルサとイズニックの地を占領し、すぐに南東マルマラ海地域も支配下におさめました。オルハン王は統治能力だけではなく、芸術や文学、科学や商業においても力を注ぎました。よく訓練された軍隊は十字軍とって脅威となりました。
強力な軍隊のもと、オスマン帝国は急激に領土を延ばし、ムラットの統治時代にはアドリア海にまで拡大しました。その後スルタン・ムラットは現在の東アナトリアへ目を向け始め、ヨーロッパからアジアにまで及ぶ帝国に成長しました。1402年にスルタン・ベヤジットはコンスタンチノープルの制覇に力をいれはじめました。
1453年に征服王メフメット2世のもと、オットマン帝国はコンスタンチノープルを征服し、世界中を震撼させました。オスマン帝国が領土を最大に延ばしたのは16世紀のスレイマン大帝の統治時代のことでした。その後、オットマン帝国はだんだんとその勢力を失っていきはじめ、衰退の時代にはいっていきます。

オスマン帝国の衰退は第一次世界大戦の会戦とともに決定的になります。ドイツ側についたオスマン帝国軍は、1918年の終戦時に英国・フランス・ロシアならびにイタリアの連合軍の支配下に入りました。1919年にはギリシア軍がエーゲ海地方のイズミールに上陸し、フランス軍が南東アナトリア地方を、イギリスがイスタンブールを支配下に収めている隙に西部アナトリア地方征服を宣言し、スミルナ地方を占領しました。
戦後、外国の脅威に脅かされ続けたトルコでは、オスマントルコの古い規律をすてた政治的、経済的発達を遂げた新しい国家をつくる動きがでてきました。これは偉大な軍人・アタトゥルクによる思想で、彼自身チャナッカレでのガリポリの戦いにてイギリス・フランス・オーストリアならびにニュージーランドの連合軍を撃退しています。ガリポリでの勝利によりアタトゥルクは帝国からヨーロッパと台頭できる国家を建設する働きかけをし、1923年10月29日にはトルコ共和国の建国を宣言し、自身も初代大統領に選ばれました。アナトリア地方の中心に位置するアンカラが共和国の首都として選ばれ、共和国憲法を発布し、ラテン文字をもとにした新トルコ文字の採用や、女性の参政権などの改革を手がけました。彼による他の改革とともにトルコ共和国はモダンな国家へ向かっていきました。

1938年、アタトゥルクは没しましたが、アタトゥルクの指揮のもと国家として自信をつけ、政治的・知的・文化的ならびに社会的なものに価値を見出すようになりました。現在、トルコ共和国は80年以上の歳月を重ねています。この期間の間に多くの改革が進み、ときには困難に面しました。アタトゥルクによって進められた政治的な改革により、現在の民主主義的複合的な政治システムが形成され、市民中心の経済国家となっています。現在はNATOの一員となることで西とのつながりも強め、オスマン帝国時代から急激な変革をとげています。過去から引き継いだものをあわせ、トルコ共和国は東方と西方を、アジアとヨーロッパをつなぐ架け橋となっています。